多様な電子ピアノやシンセサイザーなど電子楽器の開発や製造、販売を行っている株式会社コルグは、アナログ・デバイセズ株式会社(以下、ADI)のDSPであるSHARCプロセッサ「ADSP-21375」を搭載した電子ドラム「WAVEDRUM Global Edition」や「WAVEDRUM Mini」をラインアップしている。一般的な電子ドラムと異なり、発音にフィジカルモデリング方式を採用することで、ミュージシャンなど音楽上級者にも好評だ。ここでは、WAVEDRUMやSHARCプロセッサについて聞いた。
集合写真(左より)
富士エレクトロニクス株式会社 第二デバイス・カンパニー 推進部 推進1グループ テクニカルリーダー 村松 永一 氏
富士エレクトロニクス株式会社 第二デバイス・カンパニー 推進部 推進1グループ メダヴァラム スリヴァトサ 氏
株式会社コルグ 青木 秀明 氏
株式会社コルグ 本橋 春彦 氏
アナログ・デバイセズ株式会社 リージョナルセールスグループ テクニカルサポートマネージャー 玉野 恵哲 氏
アナログ・デバイセズ株式会社 リージョナルマーケティング&チャンネルグループ セントラル・アプリケーションズ アプリケーションエンジニア 祖父江 達也 氏
目次
演奏者の気持ちと、出てくる音がフィットした電子ドラム
――本日は、京王線の京王よみうりランド駅前にあるコルグの本社に伺いました。まずはWAVEDRUMについて教えてください。
本橋(コルグ):20年以上も遡りますが、1994年に初代となるWAVEDRUMを販売しており、先進的なパーカッショニストなど幅広い層に受け入れられていました。今回のWAVEDRUM Global EditionとWAVEDRUM Miniは、それをリバイバルしたものです(図1)。発音は、初代のWAVEDRUMからヘッド部と周辺のリム部にピックアップを置き、ヘッド部やリム部を叩いた生音を拾って、それをいろいろなドラム音にしています。原理としては、アコースティックギターの音をピックアップで拾ってアンプに繋げて拡声するのと似ています。
青木(コルグ):叩く場所によって音の変化がつけやすく、演奏者の気持ちにフィットさせやすくなっています。ヘッドとリムにそれぞれピックアップがあるので、ヘッド部とリム部から別々のサウンドを鳴らす事ができます。また、ヘッド面を押したことを検出するための圧力センサーを入れた事で、WAVEDRUMならではの奏法を確立できました。しかも、リム部を叩いたときにヘッド部のプレッシャーを変えることで音を変えることもできます。
――電子ドラムとは何が違うのですか?
本橋:一般的な電子ドラムは、PCM音源をソフトウェアでコントロールして音を出しています。その方式ですと、演奏者のいろいろな動作をすべて取れるように数多くのセンサーを用意し、それをコントロールするソフトウェアをできるだけ人間の気持ちに合うように作り込む必要があり、いつまでもやり尽くせません。
青木:それに対してWAVEDRUMは、単純に叩いた音をそのまま拾って、それを元に音を作っています。演奏者の気持ちと、出てくる音がフィットするのではないかと思ってこの方式にしました。
――WAVEDRUM Miniにはクリップがついていますね。
本橋:WAVEDRUM Miniには外部クリップを用意し、クリップで挟んだものをドラムにすることができます。例えば、ここにあるノートもドラムになります。ちなみに、WAVEDRUM Miniはスピーカも内蔵しています。WAVEDRUM Global Editionの方は、外部端子で音を出力していますので、別途アンプやスピーカが必要になります。
フィジカルモデリングを採用し演奏者の気持ちに寄り添う発音が可能に
――WAVEDRUMの仕組みを教えてください。
本橋:WAVEDRUMは、初代からフィジカルモデリングを採用しています。フィジカルモデリングは、信号処理の中に楽器の物理的な構造をモデルとして再現しているものです。たとえば、弦楽器ならDSPの中に弦のモデルを作り、弾く操作を加えるとモデルの弦が振動して音が出る仕組みです。通常のフィジカルモデリングでは、弾く、こする、叩く、息を吹き込むなどの動作をモデルの中に入れていますが、WAVEDRUMの場合はそれらの動作の部分はモデリングするのではなく、実際に人間が叩いた音そのものを使っています。
青木:一般的な電子ドラムは、録音された音を再現する方式です。
――フィジカルモデリングのメリットは何でしょう?
本橋:ひとつの楽器は、その演奏方法を変える事でいろいろな音色を出す事ができます。しかし通常の音源では、同じ楽器の音でも違う音は違う音色プログラムとして作らなければなりません。そのため、演奏のバリエーションをカバーするために多くのプログラムが必要になります。フィジカルモデリングでは、入力が変わればその楽器としての出力も変わりますので、ひとつのプログラムだけで多くのバリエーションをカバーする事ができます。
青木:要するに、電子ドラムはスイッチなので、どのように叩いても常に同じ音が出せます。それに対してWAVEDRUMは、叩いた音を拾っているため、同じ音を出すのが難しいのも事実です。しかし、それによって演奏者の気持ちをよりきめ細かく出すことが可能となるのです。
高いコストパフォーマンスを誇るADIのADSP-21375を採用
――WAVEDRUMにADIのSHARCプロセッサが採用されたのですね。
本橋:コストパフォーマンスの高さからSHARCプロセッサのADSP-21375を採用しました(図2)。同じDSPでも、フローティングまたは固定でもビット長の長い演算ができるものが欲しかったのです。フィジカルモデリングは、信号を何度も再計算するのでビット長が短いとノイズのかたまりになってしまいます。
青木:一般にSHARCプロセッサを使うアプリケーションでは、信号処理だけをさせて制御系は別のマイコンを用いることが多いのですが、WAVEDRUMでは信号処理に加え、制御系も行わせています。制御とはいっても、ボタンを押すとかボリュームを動かすなどの操作です。一般的な電子ドラムは、操作系の制御と信号処理部は別々に処理していますのでどちらも制御系として扱うことができますが、WAVEDRUMではリアルタイムに演奏した音の信号処理に加えて、操作系の処理を入れ込んでいます。それをSHARCプロセッサで完結させて実装しました。
玉野(ADI):アナログ・デバイセズのBlackfin プロセッサはDSPとマイコンを搭載したものでいずれの処理にも使えるものですが、SHARCプロセッサは純粋にDSPに特化して作ったものです。DSPにとって制御系は苦手な処理の一つではありますが、信号処理も含めシングルチップで実現されたのは素晴らしいと思います。ちなみに、SHARCは「Super Harvard ARchitecture Computer」というアーキテクチャの頭文字を取ったものです。
――なぜ、ADSP-21375を選択したのですか?
本橋:浮動小数点演算ができるDSPは、どうしても価格が高くなってしまいます。出荷数の少ない楽器は部品価格が製品価格に直結してしまうのです。ADSP-21371という1MビットのL1 SRAMを搭載しているものもありましたが、コスト重視で0.5MビットのADSP-21375にしました。
祖父江(ADI):WAVEDRUMではQFPパッケージのSHARCプロセッサを採用していただきました。SHARCプロセッサはBGAとQFPを用意しています。QFPなら4層基板で済み、製造コストも含めて有利となります。
オーバーレイ技術で小さいメモリサイズへ対応
――小さいメモリサイズへの対応はどのように行ったのでしょうか?
本橋:ADSP-21375は、メモリサイズが小さいため、すべての処理をメモリに載せきれません。そこで、オーバーレイ機能を使って、処理をブロック分けして必要なブロックをメモリに展開してそれを実行するようにしています。
玉野:通常プロセッサでキャッシュを使うとき、メモリ管理はキャッシュに依存しますが、リアルタイム処理に特化したADSP-21375ではキャッシュが搭載されていません。ADSP-21375のL1メモリに命令とデータを置き、高速にリアルタイム処理を行う一方、少ないメモリ容量で複数のプログラムを実行させるための手法としてオーバーレイ処理を採用されています。
スリヴァトサ(富士エレクトロニクス):外部メモリとのオーバーレイ機能についてコルグ様に提案し、富士エレクトロニクスが技術サポートを担当させていただきました。
青木:オーバーレイ技術は自社では難しく、これがなかったらWAVEDRUMは完成しなかったかもしれません。必須の技術でしたね。
本橋:RAMは256Mバイト搭載し、ROMはなく小さなフラッシュメモリにブートローダを入れています。プログラムROMサイズは大きいものが必要でしたが、コスト面で苦しくなります。そこで、マイクロSDカードをROM代わりに使っています。しかし、SHARCプロセッサにマイクロSDカードのインタフェースがなく、シリアル通信で繋いでいるので、非常に遅いのがボトルネックでした。それでも処理の順番を変えるなど、できる限りの工夫をして乗り切りました。
――SDカードインタフェースのボトルネックはどのように工夫したのでしょうか?
本橋:RAMは256Mバイトとわりと大きいので、そのRAMにユーザーが気にならないタイミングで大きなデータを展開しています。よく使うものは先にRAMに展開しておいて、なるべくデータの転送が起きないで使えるような状況をできるだけ増やす工夫をしています。
青木:必要最小限のものだけRAMに落としておいて、後は裏でこっそり動かすという感じですね。音の発音までは直ぐにできるので、別タスクで処理しています。
――すると耳の肥えている人は分かってしまうのでは?
本橋:気付かれはするのですが、あまりストレスにはならないようにチューニングしています。また、お気に入りの音を予め登録しておき、1プッシュで呼べる機能を用意しました。お気に入りの音は最大12個まで登録でき、電源オン時にすべてRAMに展開します。
開発ツール、ボード、ICEなど一通りADIで用意している
――開発環境について教えてください。
本橋:ソフトウェア開発は、ADIの開発ソフトウェアVisualDSP++を使いました。フィジカルモデリングについては、自社ツールを用い、最終的にCコードを出力しています。このCコードは、あまり加工せずにSHARCプロセッサで使うことができました。これもSHARCプロセッサを選択した理由のひとつです。
青木:OSは使っていませんが、SDカードのインタフェースとしてファイルシステムが必要だったので、それは社内の他システムから持ってきました。開発にはDSP評価ボードEZLITE(イージーライト)を使いました。
祖父江:DSPのコアを自社開発しているため、開発ツール、評価用ボード、JTAG-ICEなど、アナログ・デバイセズで一通り揃えていますので、多くのお客様にアナログ・デバイセズのツールをお使いいただいています。
村松(富士エレクトロニクス):当時ADSP-21371を搭載した評価ボードはあったのですが、ADSP-21375のものはありませんでした。そこで、ADIの本社に依頼してADSP-21375に載せ替えていただきました。
本橋:載せ替えてもらったボードで、一日中ドラムを叩いてデバッグを行っていました。音を鳴らしその音が合っているか、ちゃんと音が切り替わっているかなど、実機でないと分かりません。
――最後になりますが、開発に要した期間はどの程度だったのでしょうか?
青木:およそ7~8カ月で製品化しました。初代のWAVEDRUMから20年が経過して、もう完全に無くなっていたものを再度作る訳ですから、「ゼロ」から作るようなものでした。しかも、開発メンバーは5人だけで、外注には依頼しませんでした。
本橋:DSPのコードは外からミドルウェアを買ってくることが多いのでしょうが、コルグではコードをすべて内製しています。その時期は会社に住んでいる感じで、短時間ではありましたが死にそうでした(笑)。
――大変なご苦労があったのですね、本日はお忙しい中ありがとうございました。
APS EYE’S
コルグは、WAVEDRUMという新しい音楽表現の可能性をADIのDSPにより具現化した。打楽器の微妙なタッチをセンシングして400種類におよぶ音色を瞬時に再現する高度な信号処理。DSPを完璧なまでに使いこなせる匠の技といえよう。
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