リアルタイムアーキテクチャの開発を目的として東京大学の坂村健助手(当時)が1984年に提唱した「TRONプロジェクト」は、コンピュータやエレクトロニクスなどさまざまな分野に大きな影響を与えてきた。とくにTRONプロジェクトから生まれたITRON/μITRON仕様は、家電、自動車、携帯電話、産業機器など、世界中の何億台もの製品や機器で使われており、その貢献は計り知れない。この特集では、TRONプロジェクトの提唱者であり現在はT-Engineプロジェクトを主導する坂村健先生をお招きして、TRONから発展したリアルタイムOS「T-Kernel」を中心にお話を伺った。
目次
TRONから進化したT-Kernel。通信にも対応し機器の高度化を実現
本日は坂村健先生をお招きしてT-Kernelを中心にお話を伺いたいと思います。よろしくお願いいたします。
坂村:STマイクロエレクトロニクス(以下ST)で思い出したんですけど、EPoSSというヨーロッパの組み込みの業界団体からTRONの話をしてくれないかと頼まれて、2011年10月にスペインのバルセロナで開かれた年次総会で基調講演をしたんですよ。そのときに会ったEPoSSのチェアマンがSTの人で、名前なんていったかな。(資料の写真を見せて)この人ですよ。
オテリ:カメロ・パパ(Carmero Papa)ですね。STのシニア・エグゼクティブ・バイスプレジデント兼インダストリアル・マルチセグメント部門ジェネラル・マネージャです。
坂村:そうそう、パパさん。カメロ・パパさんだ、思い出した(笑)。ところでオテリさん、この小冊子はご存知ですかね?
オテリ:はい。先ほどいただきまして。
坂村:この一冊にTRONの特徴をまとめてあるんですけど、一つはリアルタイムパフォーマンスに優れている点、二つ目がメモリのフットプリントが小さいという点、三つ目が省エネ機能が優れている点、四つ目がツールを含めたワンストップサービスが整っているという点、そして五つ目が独自のオープンライセンスを採用しているという内容となっています。ビジネス的には「TRONエコシステム」が出来上がっています。半導体メーカーやOSベンダーはもちろん、政府や自治体、学校や教育機関、開発ツールやボードベンダー、ミドルウェアベンダー、セットメーカー、民間研究所やコンサルティング会社、それにサービスプロバイダやインテグレータなどたくさんの企業や団体が集っていて、その先には大勢のユーザーがいるわけです。TRONは30年も前からこういうことをやってきて、お陰様で国内ではリアルタイムOSとして60%以上のシェアを持っていて、家電やら自動車やら産業機器やら、いろんなモノに入っているんですよ。
そういう業界標準的なOSはヨーロッパにはないんですか?
坂村:TRONみたいなのはないんですよ。小さいベンダーが出している商用のリアルタイムOSはいくつかありますけど、標準にはなってませんよね。Linuxもあるけど、あれはIT系のシステムだしね。なんでTRONが日本で発展してきたかというと、日本が家電や自動車といった分野に強いからなんですよ。もちろん使われているのは日本だけじゃなくて、たとえばドイツの自動車メーカーもTRONを使ってますし、米国製のプリンタなんかにも入ってますよ。要は僕たちがやってきたのは標準のリアルタイムOSを通じてビジネスのプラットフォームを作るという作業であって、今はそういった活動をT-EngineフォーラムというNPOで進めているというわけです。
そもそもの初歩的な質問で恐縮ですが、ITRONとT-Kernelの関係を教えてください。
坂村:先ほどの小冊子の「Milestone of TRON/T-Kernel」という欄にまとめてありますけど、1984年からTRON協議会をやってますから、もう30年近い歴史を持ってるんです。その間にコンピュータ、当然ですけど進化してきましたよね。パソコンだって、最初はMS-DOSだったのが、Windowsが出て、そのWindowsも初期のと今のとではぜんぜん違うじゃないですか。それと同じで、ITRONやμITRONから進化して出来たのがT-Kernelで、さらに小規模な組み込みシステムをターゲットにしたのがμT-Kernelという関係です。組み込みの世界はITとは違ってロングレンジでモノを考えないとだめですけど、これまでの組み込み機器は単独で動作するのが当たり前だったのが、最近になってネットワークでつなげたいといったニーズも増えてきた。そこで、機能や性能を高めると同時に、「T2EX」(T-Kernel 2.0 Extension)と呼んでいるミドルウェアなども提供しながら、ネットワーク時代に適した新しい組み込みを目指したのがT-Kernelです。
オープン性と差別化を両立する独自のライセンス体系
T-KernelあるいはμT-Kernelを使うにはどのような方法があるのですか?
坂村:T-Engineフォーラムのサイトからソースコードをダウンロードしてもいいし、例えば、ユーシーテクノロジの「μT-Kernel DevKit」を使ってもいいし、他のサードパーティが出している商用版を利用してもいいんで、あんまり制約はないんですよ。そういう自由度を支えているのがT-Licenseっていうライセンス体系なんです。Linuxなんかで使われているGPL(GNU General Public License)では改変した部分をオープンにしなきゃいけない。一方のT-Licenseでは、メーカーが修正した部分はあなたたちの知的財産ですよと言っている。だから、いわゆる差別化の部分をオープンにする必要がないんです。だって、クルマのエンジン制御をやろうとしてITRONやT-Kernelを使おうとしたときに、わずかでも改変したらオープンにしなきゃいけないとなったら、自動車メーカーは使いませんよ。
オテリ:制約の少ないライセンスを含めて、オープンを掲げるT-Kernelの考え方はとても重要だと思います。企業や大学などいろいろな人がデバッグに関与していけばソフトウェアはどんどんロバスト(堅牢)になっていきますし、開発期間も短くてすみます。リアルタイムの分野でもこうしたスマートなアプローチがトレンドになっているのは確かだと思います。
坂村:オテリさんの言うようにロバストという考えは非常に重要です。システムがどんどん複雑になっていったときに、複雑なシステムを上手に動かすって大変なんですよ。ではどうすればいいかというと、オープンという考えを持ち込んでいろんなプレーヤに参加してもらう以外にないんですね。
先生の立場としては特定ベンダーに肩入れすることはできないかとは思いますが、Armアーキテクチャはどのように捉えられていますか?
坂村:Armはビジネスでやっていますからノンプロフィットの僕らとは違いますけど、たくさんの半導体会社がArmアーキテクチャをインプリメントしているところなんかは僕らとちょっと似てますよね。そうやってアーキテクチャを広めたっていうことは素晴らしいと思います。しかもインプリメンテーションがベンダーごとに違うじゃないですか。だから、さっき出た話じゃないけどやっぱりロバストなんですよ。おんなじ人が設計しておんなじモノを作ってたらロバストにならないですよね。組み込みの世界にはそういうプラットフォームが必要なんです。ST製品の具体的な特徴のところはオテリさんに訊いてみてください(笑)。
オテリ:STは14年以上にわたってArmプロセッサを提供してきた実績があります。また、マイクロコントローラだけではなくさまざまな半導体製品を提供していますので、アナログIPやデジタルIPを含めて幅広いテクノロジを持っている点も強みのひとつですね。常に変革に取り組んでいて、2011年秋にはCortex-M4ベースの「STM32F4」シリーズの出荷を開始しましたし、ローエンドを求めるお客様向けにはCortex-M0ベースの「STM32F0」シリーズの出荷を2012年第2四半期から出荷する予定にしています。
これからの展望があればお聞かせください。
坂村:ネットワーク社会の構築は始まったばっかりだと思うんですよね。やっといろんな準備が整ってきたんだけど、たまに広範囲で携帯電話がつながらなくなるといったトラブルが起こることからも判るように、まだ完全にはなってないですよね。だから、もっと安定したネットワーク社会の実現に、僕らの活動が少しでも貢献できればいいなと思っています。
オテリ:T-Kernelが日本だけではなく世界の組み込み分野で重要な役割を担っていることが坂村先生のお話からあらためて実感できました。最近では、たとえば機械式だったメーターが、センサーとマイコンを使ったリアルタイムモニタリングに置き換わるなど、高性能なマイコンとリアルタイムOSの組み合わせがより重要になっています。当社でもT-KernelやμT-Kernelをプロモーションなどに積極的に取り入れて、組み込み市場の高度化するニーズに応えていきたいと思います。
坂村:オテリさん、T-EngineフォーラムにもぜひSTの顧客、関係者の方々に入っていただくよう、プロモーションお願いします!企業や大学など300近いメンバーがいて、ワーキンググループやカンファレンスを開いたり、新しい機能のリクエストとかバグの修正とかを一緒にやろうというのがT-Engineフォーラムです。プリーズ・ジョイン!(笑)
オテリ:わかりました、素晴らしい取り組みですね。ぜひ検討してみたいと思います。
大変貴重なお話を伺うことができました。先生のこれからのますますのご活躍を祈念いたします。どうもありがとうございました。
Cortex-M3に最適化したμT-Kernelをターンキーソリューションとして提供
坂村先生が退席されたところで、ユーシーテクノロジーさんのお話に移りたいと思います。まずはじめに会社の概要を紹介してください。
山田:坂村先生が主導しているT-Engineフォーラムはいずれも非営利活動なので、ビジネスとしてお客様にモノを納めてサポートするということができません。そこで、その考え方に賛同し、そういったテクノロジや製品を市場に提供することを目的に、2004年に設立されたのがユーシーテクノロジです。
ユーシーテクノロジが提供している「μT-Kernel DevKit」について教えてください。
山田:μT-KernelのソースコードはT-Engineフォーラムのウェブサイトで公開されていますがArm、アーキテクチャは現時点でArm7までしか正式には対応していないんです。また、コンパイラとしてはgccが指定されています。このままでもソースコードの一部を書き換えるなどすればCortex-M3への最適化や商用コンパイラへの対応も可能ですが、経験のあるソフトウェアエンジニアでも一か月ぐらいかかります。そこで、そういったところを当社側であらかじめ最適化しておいて、μT-Kernelをターンキーとしてパッケージングしたのが「μT-Kernel DevKit」です。STのSTMF32をはじめとする各社のマイコンに対応したパッケージを揃えています。
STのCortex-M3プロセッサ製品にはローエンドのSTM32F1とハイエンドのSTM32F2がありますが、「μT-Kernel DevKit」はSTM32F2用ですね。
野田:先ほど坂村先生から、従来の組み込み機器は単体で動いていたというお話がありましたが、STM32F1クラスがまさにそうなのかなと。ところがSTM32F2クラスになってくると、パフォーマンスを活かして通信などのペリフェラルを駆使したいというニーズが高くなっています。ユーシーテクノロジさんから2011年の夏に「μT-Kernel DevKit」のお話があったときに、μT-Kernelに適するのはやはりSTM32F2であろうと判断し、サンプルドライバの提供やチューニングに関する技術サポートで開発に協力してきました。
「μT-Kernel DevKit」はどういった方々が購入しているのですか?
山田:本当にいろいろですね。工作機械の開発者、業務用カメラの開発者、白物家電の開発者などさまざまで、Cortex-M3プロセッサがカバーするすべての分野から引き合いやお問い合わせがあります。
他のマイコン・コアと比べてArmアーキテクチャの利点をお客様から聞かれることはありますか?
山田:選択肢がとても多いという話はよく伺います。STを含めて各社のマイコン製品を合計すると何百品種にもなりますよね。ツールもたくさんのツールベンダーから出ていますし。
野田:いったんArmに切り替えると、その後がものすごく楽になるという話は聞きますね。山田さんが言われたようにいろいろな選択肢があるので、そのときどきのファンクションの実現に必要な品種を選べるわけです。以前であれば、Armを検討するものの、他のマイコン・コアをそのまま使い続けられるお客様もおられました。それが、ここにきてArmへの切り替えが増えてきているのは確かですね。
山田:OSも同じで、ITRONからμT-Kernelに切り替えたいんだけども、やはりいざとなるとなかなか難しいというのが実情のようです。ただ、坂村先生が言われたように、古いMS-DOSよりも時代に即した新しいWindowsのほうがいいよね、という話だと思うんです。「μT-Kernel DevKit」でそういった敷居を少しでも低くできればと思っています。ちなみに当社では、T-KernelとμT-Kernelのポーティングサービスも提供しています。
今後の取り組みやそれぞれに対する期待を教えてください。
山田:STはCortex-M3マイコンを長年手掛けてきたこともあってユーザー数も多いんです。μT-Kernelの普及のためにも今後ともぜひ密に協力させてもらえたらと思ってます。ところで、先ほどオテリさんがCortex-M4マイコンを出したと言われていましたが、そちらもぜひサポートしていきたいと思います。
野田:Cortex-M4を搭載したSTM32F4の評価ボードを用意していますので、ぜひよろしくお願いします。高い技術力を持ったユーシーテクノロジさんがSTM32F2用のμT-Kernelターンキーソリューションを用意してくださったことに感謝するとともに、これからのパートナーシップをさらに深めていければ幸いです。
μT-Kernelが利用しやすくなることで、日本のメーカーから特徴と強みのある最終製品が生まれてくることが期待されますね。今日はどうもありがとうございました。
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