「ランニングやウォーキングをしたときに、心肺にかかっている負荷の大きさを簡単に把握して、トレーニングやエクササイズに活かしたい」。そうした健康に対する意識の高まりを受けて、オムロン ヘルスケアは、腕に巻くだけで脈拍がわかる腕時計型脈拍計「HR-500U」を開発した。バッテリ駆動時間を確保するために、Arm Cortex-M3プロセッサを搭載し超低消費電力を特徴とするSTマイクロエレクトロニクス(以下、ST)のマイコン「STM32Lシリーズ」を採用。ローパワーモードを駆使するなどして、延べ8時間の連続測定を実現した。
腕時計型脈拍計を実用化
はじめに、オムロン ヘルスケアについて紹介してください。
小林:オムロン ヘルスケアはオムロン株式会社のヘルスケアビジネス部門の分社化によって2003年に誕生しました。現在は、自動血圧計、電子体温計、体重体組成計、活動量計および歩数計などを家庭向けに提供しているほか、病院向けにもさまざまな医療機器を提供しています。
今回、腕時計型の脈拍計「HR-500U」を発売したとのことですが、その概要について教えてください。
小林:もともとは当社の米国法人から要望があって開発した商品です。ウォーキングやジョギングの際に、脈拍数を測定して運動強度を把握したいというニーズが米国では強く、当社もチェストベルトを胸に巻くタイプの脈拍計は商品化していましたが、やはり装着が煩わしいという課題がありました。より手軽に、腕に巻くだけで測定できるような脈拍計が欲しいという声に応えて開発したのが「HR-500U」です。片腕に巻くだけで運動中の脈拍を連続して計測できます。
腕に巻くだけでどうして脈拍数が測定できるのですか?
藤井:原理としては病院などで使われている血中酸素濃度(SpO2)を測定するパルスオキシメーターに似ています。LEDの光を皮膚に当てて、皮膚内部の反射光から血流量の変化を測定し、FFTなどの演算処理を行って脈拍として検出するという仕組みです。運動中でも正確に測れるように、歩行や走行で生じる体の動きを内蔵の加速度センサーを使って検知し、それらはノイズとして排除しながら、脈拍のみを検出するアルゴリズムを独自に開発しています。
性能と低消費電力からSTM32Lを採用
「HR-500U」にはSTのArmマイコンを採用されたと伺っています。
小林:製品の開発では消費電力をいかに下げるかが課題でした。というのも肌の色によって光の反射量が違うため、肌の黒い人が使う場合はLEDの発光輝度を高める必要があり、結果としてバッテリを多く消費してしまいます。バッテリサイズを大型化せずに動作時間を確保するには回路側の消費電力を抑えなければならず、ローパワーを特徴とするSTのArmマイコン「STM32L」を採用しました。ちなみに当社でArmマイコンを採用したのは今回が初めてです。
藤井:演算性能も重視しました。光センサーで検出した血流の変化から脈拍のパルスを見つけるのは実はかなり難しくて、大量の信号処理演算を必要とします。8ビットマイコンあるいは16ビットマイコンでは性能が不足することがわかっていたので、32ビットマイコンの中から消費電力が小さいArmを選択しました。
「STM32L」の特徴を簡単に説明してください。
野田:Arm Cortex-Mプロセッサを搭載した当社の「STM32」はもともとシリーズ全体として低消費電力を実現していますが、さらに超低消費電力を狙ったのがオムロン ヘルスケア様にご採用いただいた「STM32Lシリーズ」です。末尾の「L」は、ローパワー、ローボルテージ、そしてLCDコントローラ内蔵、という三つの意味を表しています。低消費電力を謳ったマイコンは他社からも出ていますが、実効的な消費電力が低く、かつ、性能に優れ、しかも価格がリーズナブルという三つの要素を満たしたのが特徴といえるでしょう。
菅井:「STM32Lシリーズ」は技術的には半導体プロセスを微細化して全体の消費電流を下げています。また、無駄な電流を消費しないように、クロックラインの最適化なども行っています。ローパワーを維持しながら高機能と高性能を実現するべく、当社の設計チームが苦労して開発したマイコンで、LCDを搭載したバッテリ動作の小型機器には最適といえるでしょう。
山口:私は関西地区で営業を担当していますが、最近はローパワーに対するお客様の関心が一層高まっていると感じています。お客様からは他社のローパワーマイコンとの比較を求められることも多いのですが、カタログ値ベースではなく実際の実力値ベースで他社と比較していただければ、「STM32Lシリーズ」の優位性をご理解いただけるものと考えています。その意味でも、今回の採用事例によって素晴らしい発表機会をいただいたオムロン ヘルスケア様には大変感謝しております。
Armマイコンは多くのベンダーから製品化されていますが、他社マイコンとの比較は行いましたか?
藤井:ST以外に数社のArmマイコン製品を検討しました。STを選んだのは、Arm Cortex-M系マイコンとして市場シェアがもっとも高く、多くの実績があったことが理由です。このほかDSPを内蔵した16ビットマイコンなども検討しましたが、消費電力が大きく、コストも見合いませんでした。
小林:従来から使用しているST製品に関して、STからしっかりした技術サポートをしてもらっていた、という実績も決め手になりました。Armマイコンは当社にとっては新規アーキテクチャになりますので、製品開発を進める上で、半導体ベンダーのサポート力を重要視しました。
新しいマイコンを採用すると、開発環境を新規に整えたり、アーキテクチャを理解しなければなりません。従来の血圧計などで使っていたマイコンは使えなかったのでしょうか?
藤井:血圧計などで使っているマイコンでは演算処理性能が足りないことは明らかでした。とはいえ、Armマイコンを採用するのは初めてでしたから、やはり開発に着手した当初は開発環境の整備や周辺回路の理解にそれなりに苦労があり、そのつど技術サポートを受けながら理解を深めていきました。ただ、当社が取引しているSTの代理店の技術レベルはきわめて高く、質問を投げてもすぐにレスポンスが返ってきましたし、仮に代理店側では解決できないことがあった場合でもSTからすぐに回答が届くので、サポートレベルについてはとても満足しています。
動作モードを使い分けて平均パワーを削減
腕時計型脈拍計の実際の開発では、どんなところに苦労しましたか?
小林:やはり運動しながら連続的に脈拍を測定するという基本的な機能の開発が最大の課題でした。商品企画を提案した米国法人はもっと早く開発できると見込んでいたようですが、脈拍測定の基礎的な技術開発におよそ一年を要しています。
藤井:LEDや光センサーの配置を何通りも試したほか、加速度センサーを使って体動を除去するアルゴリズムの開発などにどうしても時間がかってしまいました。
菅井:当時のメールを掘り起こしてみると、光センサー出力のアナログ値を読み取るところに関連したご質問だろうと思うのですが、内蔵のA/Dコンバータの使い方に関する問い合わせが多く残っています。10ビットのA/Dコンバータを搭載するマイコンベンダーが多い中で、当社は「STM32Lシリーズ」に12ビットのA/Dコンバータを最大24チャネル搭載しています。光センサー出力の高精度な読み取りに貢献しているのではないでしょうか。
肌の色にしても腕の細さにしても人それぞれ違います。開発ではどのようなテストを行ったのでしょう。
小林:まずは運動に自信のある社員に頼んで、トレッドミルでひたすら走ってもらったり、夜中に会社の周囲をこっそりジョギングしてもらって、いろいろな確認を進めました。技術的なめどが立ったところで、関西在住の外国人の方をモニタとして集めてテストを行っています。アフリカ出身、アメリカ出身、ヨーロッパ出身など、さまざまな国や地域の50名ぐらいに依頼したでしょうか。男女の別はもちろん、年齢層も若い人から中高年まで幅広くデータを取っています。
なかなかご苦労があったのですね。ところでローパワーという観点では、「STM32L」をどのように活用しているのですか?
藤井:脈拍を測定するときは演算パワーが必要なので「STM32L」を「Run mode」に設定しています。一方で脈拍を計測していないときは「STM32L」のローパワーモードのひとつである「Stop mode with RTC」にして、RTCのみ動作させ、1分ごとにArmコアを起動させて時計だけを更新し、トータルの消費電力を抑えるように工夫しています。
菅井:信号処理は高速に実行し、終わったらすぐにコアの動作を止めることで、トータルパワーをできるだけ減らそうというやり方ですね。「STM32L」マイコンの理想的な使い方だと思います。というのも、たとえば「Run mode」だけで比較するとA社のArmマイコンのほうが優れていたり、ローパワーモードだけで比較するとB社のArmマイコンのほうが優れていたりすることもあるのですが、トータルで平均すると「STM32L」がいちばん消費電流を抑えられます。
「東京マラソン2013」で多くの関心を集める
野田:ここ数年ほどランニングブームが続いていて、先日の2月24日には「東京マラソン2013」も開催されました。「HR-500U」を発売されたあとの市場の反応はいかがですか?
小林:当社の国内営業サイドから「東京マラソン2013」までには絶対に発売して欲しい、と強いリクエストがあって、なんとか頑張って2月20日の発売に漕ぎ着けたという経緯があります。レース前に東京ビッグサイトで開催された「東京マラソンEXPO2013」にブースを出したところレース参加者にかなり売れたそうですし、インターネットでの販売も品切れになるほど好調です。3月10日にはオムロンもスポンサーに名を連ねている「京都マラソン2013」も開催されるなど、ランニングブームは衰えを知らない勢いですので、これからの売れ行きにもかなり期待を寄せています。
スマホとの連動などさまざまな応用が考えられそうですね。今後の展望をお聞かせください。
小林:血圧計や活動量計のデータを集計する「ウェルネスリンク」(※1)というネット上のサービスとの連携、リストバンドのカラーバリエーション化や、スポーツメーカーとのコラボレーションも検討中です。機能面では、ジョギング以外の運動への対応も考えていきたいと思っています。
山口:ニュースなどでは関西の経済は冷え込んでいる、などといわれていますが、それでも自動車やメディカルやFAなどの分野は比較的堅調な状況にあると感じています。「HR-500U」を軸としたオムロン ヘルスケア様の新たな取り組みにはとても注目しています。
藤井:ところで、今のモデルはUSB接続ですが、Bluetooth LEなどのワイヤレス通信を介して脈拍データを収集できれば、ユーザーから見た日々のデータ管理作業はとてもラクになるのではないかと考えています。そうしたワイヤレスネットワーク機能を搭載したローパワーのマイコンをSTが開発してくれると嬉しいのですが、計画や構想はありますか?
野田:当社はローパワーだけではなくワイヤレスについても積極的に取り組んでいます。それほど遠くないタイミングでご紹介できると思います。
最後に、Armマイコンの採用とST製品の選定に関して、ご評価をお願いします。
小林:少しオーバーな表現になりますが、高性能と低消費電力を両立したSTのArmマイコン「STM32L」なくしては「HR-500U」は実現できなかったと感じています。また、STおよび代理店から優れた技術サポートを提供してもらえたことや、デバイスコストについても実用に見合うレベルで、採用して正解だったと考えています。
野田:ありがとうございます。今回、当社のマイコンだけでなく、加速度センサやEEPROMもご採用頂いている訳ですが、キットソリューションで提案できるのも弊社の強みの一つになります。ぜひこれからも当社製品を活用して、「HR-500U」のようなユニークな製品をたくさん開発してください!
ありがとうございました。
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