ストリートをはじめとしてさまざまな音楽シーンで使われるペルー生まれの打楽器「カホン(Cajon)」に、電子音を加えた画期的なハイブリッド・カホン「ELCajon EC-10」が登場した。生みの親はシンセサイザーやBOSSブランドのエフェクターなどで知られるローランドである。Arm Cortex-M0コアを搭載したSTマイクロエレクトロニクス(以下、ST)製のSTM32F0マイコンを搭載して、発音を含むすべての制御を行っているという。「ELCajon EC-10」を開発したローランドの皆さんにお話を伺った。
集合写真(左より)
STマイクロエレクトロニクス株式会社 マイクロコントローラ・メモリ・セキュアMCU製品グループ マイクロコントローラ製品部 石川 義章 氏
ローランド株式会社 第1開発部 主任 Arm認定MCUエンジニア 高﨑 量 氏
ローランド株式会社 第4開発部 課長補佐 渡邊 正和 氏
ローランド株式会社 第4開発部 松村 文雄 氏
STマイクロエレクトロニクス株式会社 東日本営業グループ 細井 達志 氏
目次
世界初のハイブリッド・カホンが誕生。生音+電子音で奏者の表現力を拡大
――ローランドといえば楽器をやっている人で知らない人はいないほど世界的に有名で、今日の取材スタッフもローランドの製品には学生時代からお世話になっているということもあり、お話を伺えるのを楽しみにしてきました。さて、そもそも「カホン(Cajon)」とはどういう楽器なのですか?
高﨑(ローランド):カホンはペルーで生まれた木の箱の打楽器で、叩き方や叩く場所でいろいろな音を叩き分けることができるのが特徴です。音楽のジャンルを問わず、しかも持ち運びやしすいので、たとえばストリートだったり、イベントの余興などでも、ドラム代わりに使われることもあります。
松村(ローランド):実は僕も今回の開発で初めて知ったほどで、まだ一般にはなじみがないかもしれませんね。
――どういった経緯で製品が企画されたのですか?
松村:立案者であり、製品リーダーでもある第1開発部 部長の西裕之が自らカホンを使って演奏をしていて、ワールドワイドで見ればマーケットはそれなりにありそうだというところから始まっています。
渡邊(ローランド):ローランドでは、電子とアコースティック(生音)とを組み合わせた「ハイブリッド」を製品コンセプトのひとつに据えています。今回の「ELCajon EC-10」もハイブリッド構成で、「響き線」(独特の打音を加えるためにカホン内側に張る弦)を入れるなどアコースティック・カホンとしての作りも押さえながら、より表現を広げられるよう、電子音を加えたことが特徴です。なお、このタイプのハイブリッド・カホンは「ELCajon EC-10」が世界初になります。
――簡単に機能を説明してください。
渡邊:アコースティック・カホンとしても使えるように作ってあるので、普通に叩けば普通のカホンとしての音が出ます。次にスイッチをオンにすると、あらかじめ組み込まれている30種類の音の中から、ヘッド(打面)を叩いたときとエッジ(上部)を叩いたときとでそれぞれ異なる電子音を発音させることができます。つまり生音に電子音を重ねた「レイヤード・サウンド」が得られるのが特徴です。また、ミックス・イン端子があるので、たとえばスマホの音楽を流しながら演奏することも可能です。
松村:BOSSブランドで培った電池動作のアンプ技術を使って、ストリートなど屋外で演奏するにも十分なように、通常使用で約12時間、最大出力でも約6時間は使えるよう設計してあります(単三乾電池6本使用時)。もちろんACアダプタも付属しています。
石川(ST):とてもユニークな製品ですよね。私の所属する部署に学生のときからバンドをやっているマーケティング担当がいるのですが、彼に「ELCajon EC-10」の話をしたら欲しくなったらしくて、さっそくネットで値段を調べていました。たぶん彼は買うと思います(笑)。
STのCortex-M0マイコンを採用。性能を最大限に引き出して発音を制御
――このハイブリッド・カホン「ELCajon EC-10」には、Arm Cortex-M0コアを搭載したSTM32F0マイコンを採用したそうですね。
松村:通常は音の制御には専用のチップを使って、I/O部分などに汎用マイコンを使うことが多いのですが、「ELCajon EC-10」では汎用マイコンだけで開発しようと。それで要素技術を評価している別の部署に相談してみたところ、STM32F0でいけるんじゃないかというやりとりがあって、STのマイコン開発ボード「Nucleo(ニュークリオ)」でプロトタイプを作ってから製品に仕上げていったという感じですね。
細井(ST):ローランド様がカスタムチップを使われているという話は以前から聞いていたので、今回STM32F0マイコンをメインとして採用していただけたことを、とても嬉しく思っています。ただ、Arm Cortex-M4ベースではなくて、Arm Cortex-M0ベースを使われたというのはちょっと驚きでした。
松村:楽器として同時発音数などを優先する場合は、カスタムチップで実現する例がほとんどですが、「ELCajon EC-10」の場合は叩くところがヘッドとエッジしかなく発音数が限られているので、これならいけるだろうと。
石川:音の処理とかセンシングデータの処理には、より高性能なArm Cortex-M4コアを搭載したSTM32F4シリーズをご採用いただくケースが多いのですが、Arm Cortex-M0コアの性能を最大限に引き出しながら製品としてまとめられたのは、ローランド様の技術力の高さだと感じました。
――STM32F0マイコンについて簡単にお願いします。
石川:STM32F0シリーズはArm Cortex-M0ベースのマイコンで、STM32ファミリとしてはエントリーレベルの製品にあたります。ただしエントリーレベルとはいえ、USBインタフェースやモータ制御用タイマを装備していますし、A/Dコンバータも12ビットを搭載するなど、機能や使いやすさはきちんと実現していますので、さまざまなアプリケーションに使える製品です。STマイクロエレクトロニクスのマイコン製品はどれも汎用性が高いのですが、機能と性能を引きだしていただければ今回の「ELCajon EC-10」のようにユニークなアプリケーションを実現できます。しかもローランド様が「ELCajon EC-10」に採用されたSTM32F042という品種は最小の20ピンパッケージの製品でも、USBも12bit A/Dコンバータも搭載していますので、最小限の実装面積で高い付加価値を創出できると考えています。
アートウェア開発に注力できる、充実した開発環境が決め手に
――Armマイコンはいろいろなベンダーから出ていますが、STを選択した理由を聞かせてください。
渡邊:社内での採用実績があったのですぐに候補に挙がったように思います。
高﨑:私どもはやはり楽器メーカーなので、ソフトウェアでもハードウェアでもない楽器としての部分を「アートウェア」って呼んでいるんですが、アートウェアの作り込みや調整にいかに時間を掛けられるかがとても重要と考えています。マイコンは、コストや機能要件に従って毎回選定をかけてはいますが、STのマイコンにはI/O機能をライブラリ化した「STM32標準ペリフェラル・ライブラリ」があり短期間でシステムを立ち上げられるので、ソフト屋としてはとても助かるんですね。そういった点は採用実績が多い理由かもしれません。
石川:STではお客様に創造性を存分に発揮していただきたいという想いを込めて「Releasing Your Creativity」(お客様の創造性を解き放つ)というキャッチフレーズをSTM32マイコンのバリューとして掲げています。ローランド様がSTM32標準ペリフェラル・ライブラリを活用して立ち上げに要する期間を短くすることで、アートウェアのチューニングに注力できた、ということを伺いましたので、まさにSTM32マイコンのバリューがお役に立てたのかなと感じました。ちなみにSTM32標準ペリフェラル・ライブラリの進化版となる「STM32Cube(キューブ)」というソフトウェア開発プラットフォームの提供も開始しています。ファームウェアの自動生成ツール的な位置づけで、マイコン間の可搬性を高めるためにハードウェア抽象化レイヤー(HAL)の概念を取り入れているほか、PC上で使用するGUIコンソールを採用して使い勝手も高めていますので、今後是非ご活用いただければと。
渡邊:そのほかには、DMA機能がきちんとあることやA/Dコンバータが十分な性能を持っていることも決め手になりましたし、電子楽器は製品寿命が長いので、長期供給をしていただける点も評価しました。
石川:先ほども説明しましたように、STM32F0シリーズはエントリーレベルの製品として、性能・機能・コストもしっかりと最適化してありますので、安心してお使いいただければと思います。
――先ほどNucleoで試作したというお話がありました。
渡邊:はい。STは評価ボードが充実しているので、今回はNucleoにハイブリッド・カホンのプロトボードを接続して、開発を先行して進めました。
石川:STマイクロエレクトロニクスのマイコン評価ボードというと「Discovery Kit」が知られているかと思いますが、MEMSセンサーやタッチキーパッドなどの周辺機能を持たせたボードになっています。一方、今回ローランド様が使われたNucleoは、マイコンとデバッガとLEDとスイッチだけで構成されたシンプルさが特徴で、ジャンパー線もしくはArduino互換ソケットを介してお客様のプロトシステムにつないでいただくことを想定しています。味見だけに使われるお客様も多いのですが、今回は製品試作にも使い込んでいただき、こちらも嬉しく感じています。
奏者の感覚を損なわないようセンシングやレスポンスに工夫
――開発で苦労した点はありますか?
渡邊:やはりセンシングの部分ですね。最初は電子ドラム「V-Drum」の技術をそのまま持ってこようとしたのですが、ドラムとは構造が違いますし、表面板に天然の木材(サペリ)を使っているということでバラつきも大きくて、しかもスティックではなくて手で叩きますから、奏者の感覚をどう反映するかというところに苦労しました。詳しいことは言えないんですが、カホンの奏法を解析して奏者はここら辺をこう叩くだろう、というのを想定しながら、振動を電気に換えるピエゾセンサーを複数個使って拾っています。
高﨑:センサーの出力信号を解析して、どれぐらいの強さで叩かれたのか、どの部分が叩かれたのか、どのように叩かれたのか、といった情報に落とし込むところですね。
松村:試作の途中でセンシングを優先して最もいいポイントにセンサーを組み込んでみたら、生音が全然出なくなってしまったこともあり、アコースティックと電子をいかに両立させるかが苦労したポイントでした。
――打楽器ですからレスポンスも気になりそうですね。
高﨑:私は趣味でドラムをやっているのでよく分かるのですが、カホンを含む打楽器は、叩いたときの感触が手や手首に直接返ってくるので、奏者は他の楽器よりも遅延を敏感に感じ取りやすいとされています。
渡邊:その点はローランドのドラム製品やパーカッション製品でいちばん気を付けている点なんです。奏者の要求もシビアですから、発音までのレイテンシ(遅延)をなるべく短くしようということで、この「ELCajon EC-10」ではOSも載せていませんし、STM32標準ペリフェラル・ライブラリもそのまま使わずに、すべてチューニングしました。
松村:レスポンスを高めるために、STM32F0マイコンのDMA機能を積極的に使ってA/Dコンバータからのデータ転送を行うなど、ソフトウェアの負担をできるだけ減らす工夫を盛り込んでいます。
細井:モータの制御などでは性能をギリギリまで引き出すような使い方をよく聞きますが、応答性が求められる楽器でそうした使い方をされたということで、大変興味深く感じました。性能の問題は、コストとのトレードオフにはなりますが上位のマイコンを使えば大抵は解決してしまうわけです。そこをローランド様はしっかりと見極められたんだなと。
顧客の創造性を高めるSTの製品。ニーズに合った製品を今後も拡充
――「ELCajon EC-10」に対する市場の反応はいかがですか?
渡邊:カホンを使う人って1台だけではなく、複数台持つのが当たり前のようなので、2台目あるいは3台目のカホンとして「ELCajon EC-10」を使って欲しいと思っています。ただ、2016年1月20日に発売したばかりなので(インタビューは2月に実施)、実際のお客様の反応はこれからですね。
松村:幸いなことにカホンとしての生音はそれなりにいいという評価が得られているようで良かったなと。いくらハイブリッドな機能があっても、生音がダメだとまったく売れないでしょうから。
――まだまだお話は尽きないのですが、これからの取り組みについてお話を伺いたいと思います。
高﨑:やはり叩いていて気持ちのいいドラム製品やパーカッション製品をいかに作っていくかが自分の想いですね。技術的にはセンシングの部分になってくるのですが、奏者の気持ちに寄り添うことを忘れずに新しい製品の開発に取り組んでいきたいと思っています。それから、開発環境はSTM32Cubeへの移行を進めているところで、STにはフットプリントの小型化を含めて使いやすい環境の提供をこれからも期待しています。
渡邊:まずはこの「ELCajon EC-10」が市場で高く評価されて、ゆくゆくは後継機が展開できればなと思っています。
松村:二人に先に言われちゃったな(笑)。「ハイブリッド」や「レイヤード」のようなキーワードを活かした製品をまた作っていきたいですね。そのためにも、STには新しいマイコンをどんどん紹介してもらいたいですね。
石川:STはおおむね3ヶ月に1製品のペースでマイコンの新製品を市場投入しています。ローランド様を含めたお客様が必要とするものを、これからもご提供できるように努めていきます。汎用マイコンを扱う私たちにとっての醍醐味のひとつが、今回のハイブリッド・カホンのようなユニークな最終製品を見ることですので、これからも製品を広く使っていただければ嬉しく思います。
細井:改めましてSTマイコン製品を幅広くお使いいただきありがとうございます。ローランド様からこういったお話を伺う機会がこれまであまりなかったのですが、STM32マイコンのいいところを引き出してお使いいただいていることが分かりました。先程石川が話した通り、今後も新しいマイコン製品を次々にリリースしていきますので、今後も貴社の製品に活かしていただけたらと考えています。
――本日は、ありがとうございました。
APS EYE’S
カホンは、アコースティック楽器に分類される打楽器の一つであるが、ローランドはカホンの特徴である手軽で幅広い演奏に対応出来るキャパビリティと、エレクトロニクスによるハイブリッド化がもたらしたプレイアビリティを、見事に仕立て上げることができた。「アートウェア」は同社の造語だが、まさにテクノロジーがアートになったと言っていいだろう。このELCajonは、演奏者のフィーリングを忠実に再現するため、これまで培った多くのノウハウで、コストと性能をギリギリまで追い込んでSTM32F0で実現させた。マイコンの性能を完璧に使いこなすことはもちろんだが、あくなき性能追求の姿勢こそが、グローバル展開している同社の強みなのだ。
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